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テキストが入ります

私は育児や子どもの発達障害専門のカウンセラーをしている藤沢紗紀です。

私は小さいころから自分が好きではありませんでした。

人の顔色をうかがって自分の気持ちを口に出せず

人に嫌われることを恐れていました。

つらいことや悲しいことも口に出せず、本音で話すことが出来なくなり

本当の自分とは何かと悩む事が多々ありました。

こんな自分を解放してくれたのがカウンセリングでした。

自分の気持ちを打ち明けた時、ああ私はこんな気持ちを持っていたのかと

初めて自分自身を知ったように感じました。

その後は少しずつですが自分の気持ちを受け入れ

自分を好きになれるようになりました。

私が前を向くきっかけは自分の話を聞いてくれる人たちの存在でした。

ですから私も自分の経験を生かして

同じような悩みを持つ方々の力になりたいと思っています。

「つらいこと苦しいことは今が底であり明日は今日より良くなっていく」

どんな状況にあっても必ず光は指してきます。

一人で悩まず、ぜひあなたの話を聞かせてください。

幼少期~高校まで

私は徳島県で生まれ、両親と姉と兄の5人家族で育ちました。

両親は共働きで、小さい頃は子守りのおばさんに預けられていました。

夏休み等の長期休みも家族で出かけることはまれで

友達の旅行の話をうらやましいと思っていました。

姉や兄とは一緒にいることが多かったので仲が良かったのですが

私は二人にうらやましいという感情を持っていました。

姉は初めての子ども、兄は待望の男の子でしたが3番目の私は

両親にとってあまり関心が無いように感じられました。

夏休みに唯一行っていた海水浴は姉と兄が友達と遊ぶことを優先し

行かないと言うと、私に意見を聞くこともなく中止になる。

二人には立派なアルバムがあり、小さい頃の写真が整理されているのに

自分にはない。

など家族にとっては些細なことだったかもしれませんが

私にとっては悲しい事でした。

また、皆勤賞が常の姉や兄と比べて私は熱が出やすく学校を休むことが多い子供でした。

母は私が熱を出すと仕事を休まなくてはならなかったため

休みが続くと時々「あなたは手がかかる」「そんなに休みたいん」

と言うようになり、次第に家族の中で私は

なまけ癖のある子どもとして扱われるようになりました。

小学校、中学校、高校と家族が悪気無く口に出す

言葉のとげはだんだん自分の中に溜まっていき

私は苦しさやつらさを口に出せないようになっていったのです。

大学時代 変わるきっかけ

大学生になると一人暮らしを始めました。

友達もでき、楽しい生活を送っていましたがそれは突然起こりました。

三年生のゴールデンウィークの後、大学へ行けなくなったのです。

最初は「体がだるいかな」「明日には行けるかな」などと思っていましたが、

何日経っても家を出ることができませんでした。

携帯に来る友達からのメールも見ることができず一月が過ぎようとする頃

ようやく自分の中で「何かおかしいのではないか」という気持ちが芽生え

大学で貰ったプリントの中にあった心の悩みダイヤルへ電話をかけました。

電話の相手は私の話を聞いてくれて

心療内科や精神科に行くことを勧めてくれました。

それまでは心療内科や精神科というのは自分にとって全く縁のない物であり

なんとなくですが行くのに抵抗があるようなところでした。

しばらく悩みましたが、近くの心療内科に電話をかけたことが

私の中に大きな変化をもたらすきっかけとなるのでした。

この病院の先生には二つの相反する感情を持っています。

自分や家族の認識を変えてくれたと途への感謝の気持ちと

自分を否定されたことへの悲しみや怒りなどの混ざり合った負の感情です。

自分の大学へ行けない原因が強迫性障害やうつ病であると診断し

両親になまけ癖ではないこと、ずるをしているのではないこと

を説明してくれたことなど感謝することはたくさんあります。

先生のおかげで人の自分の気持ちを話すことの大切さを実感できました。

カウンセリングで気持ちや感情を言葉にすることで

今まで気づかなかった自分の感情を掘り起こすことができることを知ったのです。

しかし投薬やカウンセリングを続けてもなかなか改善が見られなかった時

「本当はもう行けるんじゃないの?」

「これだけやってるのに効果のない人はあなただけだよ」

「やっぱりなまけ癖なんじゃないかな」

と言われたことは今でも忘れられません。

自分を肯定し、根気よく話を聞いてくれていたのはいったい何だったのか。

結局この人も両親と変わらない人なのか。やっぱり自分が悪いのか。

病院に行くのもやめ以前と同じ部屋に閉じこもる日々になるかと思いました。

ただ以前と違っていたのが、カウンセリングを受けている時に

研究室の教授が

「講義が受けられなくても研究室に来ればいい」

「ただ私やみんなと話をしてお茶を飲む、それだけでいいじゃない」

と言ってくれたことで、少しずつですが家を出たり研究室へ顔を出したり

することができるようになっていたのが大きかったのだと思います。

一人で悩むのではなく違う病院を探してみようと行動し

新しい先生、教授、友達、家族とたくさんの人の手を借りて

休学はしましたが大学を卒業できるまでに回復出来たのです。

子どもの発達障害

就職してからも自分の体調や病気の波はありましたが

友達や周りの人に恵まれ35歳で結婚、36歳で第一子を出産しました。

子どもは大好きで昔から自分の子を生むことに憧れがあった分

妊娠、出産、育児の現実と理想の差に苦しむことは多々ありました。

それに加えて初めての子どもは生まれたその時に尿道下裂と診断されました。

病名を告げられた時は何を言われているのか良く理解できず

病室に戻って一人になり、言われたことが理解できると涙が止まりませんでした。

「何がいけなかったんだろう」

「これからどうなるんだろう」

「なぜ普通に生んであげられなかったのか」

色々な考えで頭はぐちゃぐちゃになりました。

1歳という幼さで手術を受けることになってしまったことは

胸が痛みましたが、尿道下裂が軽度であることや

術後の経過が良かったことでひとまず安心出来ました。

子どもは尿道下裂以外は大きな病気もなかったのですが、

1歳を過ぎて39度を超える発熱とともに熱性けいれんを起こしました。

熱性けいれんを一度経験した子の約7割は、再発することなく、

一生に一度きりで終わりますがわが子は再発がありました。

高熱が出るとけいれん止めの薬をすぐに使う事に気をつかいましたが

それ以外は元気に成長しているように思えました。

3歳半検診の時に子どもの発達が遅れていることを指摘されました。

尿道下裂のことに加えて、けいれんの後遺症で発達障害になったのではないか等

思い当たること全てが自分のせいに思えて自分を責めました。

発表会や運動会でうちの子だけじっとできない、みんなと同じようにできない、

自分の思うとおりにならないと暴れて手が付けられなくなる、

この頃は毎日が苦しく、周りの子を見ては

「どうしてうちの子はあんな風に出来ないんだろう」

と思ってばかりでした。

毎日毎日重い気持ちでしたが、初めて子どもが家のトイレで排便できた時

嬉しくて嬉しくて今までの努力が報われた気がして涙が出ました。

同時に同じように過ぎる日々が無駄ではない、うちの子はほかの子に比べると

ゆっくりではあるけど成長しているんだと実感できました。

その後、園の担任の先生が本当によくしてくださったこともあり

できることが毎日増えて、発表会や運動会を楽しめるようになりました。

今子どもは小学一年生で、今年新しい環境へ飛び込んだところです。

これからも色々なことが起こるだろうと思いますが、

子どもも私も成長するんだということが分かっているので

焦らずにゆっくりと見守っていきたいと思っています。

最後に

人は誰だって悩みを持っています。

表面上は笑っていても心の中までは分からないものです。

そしてその悩みの内容に大きい、小さいはないのです。

どんなに些細に思える悩みでも自分が苦しんでいるなら

それは些細なものではないのです。

もし今何かに悩み、苦しんでいる人がいるなら

その気持ちを外に出してみませんか?

私も色々な悩みを持っていたからこそ

ここまで読んでくださったあなたの気持ちに寄り添えると思っています。

もし「話を聞いて欲しい」「誰かに分かってほしい」と感じているのなら

気軽に声を聞かせてください。

「つらいこと苦しいことは今が底であり明日は今日より良くなっていく」

のですから。